東日本大震災:ボランティア活動の時、岩手県 (その2)

コラム・活動
木を片付けて、薪にする。背景にはモンゴル風のテントも
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日本での活動について

ボランティア活動

震災から一年後の遠野の拠点地には、全国から色々な人たちがボランティアとして参加していました。そこから、あちこちの被災地に毎日出掛けて行きました。

ドイツやアメリカを始め、外国からも沢山のボランティアの人達が来て、それぞれの思いを実行に移して、少しでも役立てればと宮城や岩手で色々な形で手伝いをしていました。

 

 

被災地の姿

一年前の当時画面に映った大津波の映像は、見たもの皆の脳裏に焼き付いていると思いますが、実際に現地に入ってみるとその被害の大きさが改めて胸にどしんと来ました。

 

我が子や兄弟、親子の行方が分からず遺体を探して歩き回るつらさとはいかばかりだったのか。その場にいなかった私たちには、それらの体験を推測しようにも為す術もありませんでした。

 

生身の遺体をみるという一番つらい体験をして来た人たちが今本当にどんな気持ちで、つらさを乗り越えて前へ進もうとしていられるのか。

 

大きな悲しみを背負った方々のやるせなさや無念さ、よるべなさは、今も癒える事は無く、言葉では表し難い身体の奥が張り裂けるほどの痛みを伴う事があろうかと思います。

 

 

日々の活動

ボランティア活動団体では、当時まだまだあちこちにあった災害の後の瓦礫や石などを退けて綺麗にしたり、畑に野菜などを植えたり、日常生活を組み立てるところからお手伝いしていました。

木を片付けて、薪にする。背景にはモンゴル風のテントも

また心のケアの大切さを認識して活動していたグループも沢山ありました。

それぞれの努力で、少しずつ片付けられた後には、小規模ながらも仮設の商店やレストランも開店していました。

 

大船渡 屋台村

 

たまに仕事に間に、応援の意味も兼ねて、そう言う場所に行って、お話を聞いたりして辛さを乗り越えて働いている人たちの姿に感動をしました。

お年を召された方があれこれと仕切って、小料理屋されている所にも行ってみました。

壁に『喜び』の字が書かれた絵がかかっていたのですが、それをよくよく見てみると、
「ありがとう」と綴られていました。

 

喜(ありがとう)

 

色鮮やかな花々を地元の人たちと協力して、被災地のあちらこちらの花壇一杯に植えたりしていました。

交流の場所を作ったり、支援物資を配布したり、お茶会や活動の場所を作り、被災者たちが自発的に、積極的に自立してサークルなどを作って行く下地作りのお手伝いもしていました。

 

皆の笑顔が少しずつ増えていくのが狙いでした。

 

 

 

毎朝起きて、挨拶を交わし、ご飯を作ったり、食べたり、それから四方山話をしたり、土いじりや花を育てたり、手芸をしたり、身体がなまらない様に散歩に行ったり体操をしたり、知り合いを訪ねたりする、その一つ一つが大切な事でした。

 

炊き出しとか林の木の伐採など日常の助け合いの行動の中から商売につながる事を考えて、レストランを始めたり、伐採所を開いたり、ハーブ園を作ったりなどの活動が少しずつ生まれて来ていました。

 

 

 

ホタテや牡蠣の養殖の資材や筏などがすべてなくなってしまった漁業関係者も、再起動するために着実にステップを踏んで再生に努力し、朝市や商店街も仮設ながら、要所要所に作られていました。

 

 

そしてこれらの活動が、その後の街作りのそれぞれの核となって広がって行くのを皆が望んでいました。ただ、シニアにとって、今までに運営していた店やビジネスを建て直すための資金を借りるのは、並大抵ではなかったようでした。

 

自分の家を建てようにも、資金の目安がつかず、その後の生活の基盤がなくなった人とそうでない人達の差がかなりはっきり分かれて、ため息をついているシニアを見るのは、とても辛い事でした。

 

子供達の居場所とメンタル・ヘルス

子供たちの無邪気な会話の中にも大津波の爪痕は、見え隠れしていました。

教育の現場でも「ふるさと科」をカリキュラムに特設して、生き方を基盤とした教育内容や、地域や自分の生き方を見つめて将来の復興発展に貢献出来る人材の育成や地域の活性化を考慮した教育活動を推進しているとの事でした。

 

震災後からずっと、子供たちの置かれている環境整備、公園や遊び場等の公共空間がまだまだ確保されていなかった事が懸念されていました。

限られたスペースに多くの人たちがいる場所、または住居が散在している場所では、子どもが遊ぶ十分なスペースを確保できなかったりしていたのが当時の現実でした。

 

でもそれぞれが自分たちの思いを抱えながら、子供達なりにどうしようもない現実を見据える努力をしていたのがとても健気でした。

 

カナダでもその後毎年、子供達をトロントに呼んで彼らの日常とは違うホームステイ等の生活を体験してもらおうと、今でも資金を集め活動している人達もいます。

 

友人達との出会い

そして現地で偶然にも出会ったのは、遠い九州の離島から片道36時間をかけて地元の民間団体主導の第四次ボランティア隊のシニアたちを引き連れてやって来ていた、高校の時の同級生でした。「世間は狭い、しかし支援はグローバルだ。」とのコメントが心に残りました。

 

トロントで公共保健士・看護婦をしていた友達が、石巻でこれもボランティア活動だけではなく、実際に仕事に従事をする為に別行動で東北に来ている事を知り、一緒に行動したこともありました。シニアの運動を奨励する為にあちこちを回ったりすると共に、お互いの行動や被災地の様子の情報交換もしました。

 

 

大笑いできるその日まで・・・・

大槌を支援するためのポスター・シリーズの中に、「大笑いできるその日まで・・・」と言うポスターが目に留まりました。

その後しばらくすると、風化が懸念され始めて来ました。被災地の外の人々がこの大震災と被災地の事を忘れてしまう事です。

「忘れてなんかいません。あきらめないで下さい。あなたの笑顔がみたいです。」と「寄り添う」気持ちがあの時から、そしてこれからもずっと求められていると思います。

希望の種を植えてみんなで育んで行くしなやかな姿勢です。

 

後記

当時、大地震は津波被害に加えて、目に見えない恐怖を引き起こしたのは、一目瞭然でした。

私達にできる事は片付けのお手伝いをしたり、仮設住宅に住む人たちに寄り添う事でした。

その後も毎年の様にかなりの数の地震が感じられると言う事で、つい最近も今年の2月半ばには、マグニチュード7.1の地震が起こり10年前の地震を思い起こす出来事になった様です。

 

失ったものは計り知れず、一生かかっても東北の人達の粘り強さや耐えて起き上がる力に今でも応援をしています。

「時間が薬だという人達が多い中で、今でもその時間にさいなまれて過ごしている人達も多くいるのも事実です。」と言うのは、家族の半分を犠牲者として亡くし、故郷をも無くした宮城県の大川小学校出身の私の友人の一人の言葉です。

 

亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。