東日本大震災から10年:何気ない1日を突然襲た悪夢と光景!そしてボランティア活動      

あの日どこにいたのか覚えていますか。

異国にいても忘れられない非日常的な脅威の災害

2011年3月11日、東日本を未曽有の大地震が襲いました。地震は津波を引き起こし、海水が巨大なアメーバーのように街を飲み込んで家々を押しつぶし海の底へと押し流し、人々から大事なものを奪い去ってしまったのです。

その光景はいまも私たちの記憶にとどまったまま離れることはありません。あれから10年も経ったのですが、被災者の人々の心の傷は深く残っているのです。

今日、2021年3月11日付のトロントの新聞には、カナダの日本大使館総領事が十回忌の追悼の意を表し、「ありがとう Thank you.  Merci」と題して自然災害時に日本に対して援助をもらった事を感謝すると共に、相互援助を念頭に恩送りする旨のメッセージを掲載されていました。

あの日私は・・・

あの災害の起こった日、私は、モントリオールへ出張に行く為にトロントの空港で飛行機を待っていました。何気なく見上げたテレビのスクリーンに」仙台空港が水浸しになる状況が映し出されていたのです。

しばらくは、何が起こっているのか、見当もつかなかったのですが、徐々にニュースから地震と津波の発生とその余震の様子が伝わって来ました。

一夜開けると避難者達の様子が映像となって伝えられて来て、それからの1週間と言うもの、毎晩の様にテレビの前に釘付けになって、東北地方の様子を見ていました。

東北人のしなやかさ

この信じられないほどの被害の中で私が最も感動したのは、緊急物資の配給を待ちながら辛抱強く黙々と並ぶ人々の列であり、その中でも慎み深い謙虚な姿勢で未曾有の被害を乗り切ろうとする態度、且つ譲り合いの気持ちを示す人達の姿勢でした。

その後の長い避難生活の中でも、長い行列、整然とした秩序。お年をめされた方々の気丈夫な中に現れるつつましやかな態度と感謝の気持ちがいぶし銀のように輝いていました。

これらに世界が感動しましたが、あの時わたしは、いつかあの人達のところへ行こうと思いました。

何もできなくても、ただそばにいてお手伝いをして、手をにぎって肩を触ってあげられたらと。

そしたら、あの人達の暖かさや強さが私にもきっと伝わって肌に感じられるに違いないと思ったのです。

トロントでの募金活動

しばらくは、「おにぎりを売ったり、トロントの真ん中で民謡の踊りを披露したり」トロントで募金運動をする団体等に関わり支援をしました。

そして、翌年カナダから遠野を拠点とした団体の下で4ヶ月ほどボランティア活動をすべく、日本へ行ったのです。

そしてカナダから日本へ:岩手県の拠点

東日本大震災のボランティア活動地域の状況を調べていた時に、拠点として「TONO」という名前が目につき、なぜだろうと疑問に思っていました。

実際に拠点に着いてみて、その理由がわかりました。

「遠野」は、昔から海と山とを結ぶ交易の拠点で、大槌、釜石、大船渡や陸前高田などの沿岸の被災地とは峠をひとつ隔てただけの近隣の街だったのです。

遠野物語でも知られ、心のゆりかごの様な優しく、且つ厳しい自然に囲まれた所で人々が触れ合う街であり、奥ゆかしさのある街です。

当時東日本大震災の時には、跡形もなく消え失せた沿岸の街の支援にいち早く駆けつけた街でした。

そして、被災地の為にも支援の拠点を作り、行政も沿岸地帯の復興を応援していました。

当時画面に映った大津波の映像は、見たもの皆の脳裏に焼き付いていると思いますが、実際に現地に入ってみるとその被害の大きさが改めて胸にどしんと来ました。

我が子や兄弟、親子の行方が分からず遺体を探して歩き回るつらさとはどんな体験だったのか。

生身の遺体をみるという一番つらい体験をして来た人たちが今本当にどんな気持ちで、つらさを乗り越えて前へ進もうとしていられるのか。

大きな悲しみを背負った方々のやるせなさや無念さ、よるべなさは、今も癒える事は無く、言葉では表し難い身体の奥が張り裂けるほどの痛みを伴う事があろうかと思います。

日本での活動について

ボランティア活動

ボランティア活動団体では、当時まだまだあちこちにあった災害の後の瓦礫や石などを退けて綺麗にしたり、畑に野菜などを植えたり、日常生活を組み立てるところからお手伝いしていました。

また心のケアの大切さを認識して活動していたグループも沢山ありました。

色鮮やかな花々を地元の人たちと協力して、被災地のあちらこちらの花壇一杯に植えたり、交流の場所を作ったり、支援物資を配布したり、お茶会や活動の場所を作り、被災者たちが自発的に、積極的に自立してサークルなどを作って行く下地作りのお手伝いもしていました。

皆の笑顔が少しずつ増えていくのが狙いでした。

毎朝起きて、挨拶を交わし、ご飯を作ったり、食べたり、それから四方山話をしたり、土いじりや花を育てたり、手芸をしたり、身体がなまらない様に散歩に行ったり体操をしたり、知り合いを訪ねたりする、その一つ一つが大切な事でした。

炊き出しとか林の木の伐採など日常の助け合いの行動の中から商売につながる事を考えて、レストランを始めたり、伐採所を開いたり、ハーブ園を作ったりなどの活動が少しずつ生まれて来ていました。

ホタテや牡蠣の養殖の資材や筏などがすべてなくなってしまった漁業関係者も、再起動するために着実にステップを踏んで再生に努力し、朝市や商店街も仮設ながら、要所要所に作られていました。

そしてこれらの活動が、その後の街作りのそれぞれの核となって広がって行くのを皆が望んでいました。ただ、シニアにとって、今までに運営していた店やビジネスを建て直すための資金を借りるのは、並大抵ではなかったようでした。

自分の家を建てようにも、資金の目安がつかず、その後の生活の基盤がなくなった人とそうでない人達の差がかなりはっきり分かれて、ため息をついているシニアを見るのは、とても辛い事でした。

子供達の居場所とメンタル・ヘルス

子供たちの無邪気な会話の中にも大津波の爪痕は、見え隠れしていました。

教育の現場でも「ふるさと科」をカリキュラムに特設して、生き方を基盤とした教育内容や、地域や自分の生き方を見つめて将来の復興発展に貢献出来る人材の育成や地域の活性化を考慮した教育活動を推進しているとの事でした。

震災後からずっと、子供たちの置かれている環境整備、公園や遊び場等の公共空間がまだまだ確保されていなかった事が懸念されていました。

限られたスペースに多くの人たちがいる場所、または住居が散在している場所では、子どもが遊ぶ十分なスペースを確保できなかったりしていたのが当時の現実でした。

でもそれぞれが自分たちの思いを抱えながら、子供達なりにどうしようもない現実を見据える努力をしていたのがとても健気でした。

カナダでもその後毎年、子供達をトロントに呼んで彼らの日常とは違うホームステイ等の生活を体験してもらおうと、今でも資金を集め活動している人達もいます。

友人達との出会い

そして現地で偶然にも出会ったのは、遠い九州の離島から片道36時間をかけて地元の民間団体主導の第四次ボランティア隊のシニアたちを引き連れてやって来ていた、高校の時の同級生でした。「世間は狭い、しかし支援はグローバルだ。」とのコメントが心に残りました。

トロントで公共保健士・看護婦をしていた友達が、石巻でこれもボランティア活動だけではなく、実際に仕事に従事をする為に別行動で東北に来ている事を知り、一緒に行動したこともありました。シニアの運動を奨励する為にあちこちを回ったりすると共に、お互いの行動や被災地の様子の情報交換もしました。

大笑いできるその日まで・・・・

大槌を支援するためのポスター・シリーズの中に、「大笑いできるその日まで・・・」と言うポスターが目に留まりました。

その後しばらくすると、風化が懸念され始めて来ました。被災地の外の人々がこの大震災と被災地の事を忘れてしまう事です。

「忘れてなんかいません。あきらめないで下さい。あなたの笑顔がみたいです。」と「寄り添う」気持ちがあの時から、そしてこれからもずっと求められていると思います。

希望の種を植えてみんなで育んで行くしなやかな姿勢です。

後記

当時、大地震は津波被害に加えて、目に見えない恐怖を引き起こしたのは、一目瞭然でした。

私達にできる事は片付けのお手伝いをしたり、仮設住宅に住む人たちに寄り添う事でした。

その後も毎年の様にかなりの数の地震が感じられると言う事で、つい最近も今年の2月半ばには、マグニチュード7.1の地震が起こり10年前の地震を思い起こす出来事になった様です。

失ったものは計り知れず、一生かかっても東北の人達の粘り強さや耐えて起き上がる力に今でも応援をしています。

「時間が薬だという人達が多い中で、今でもその時間にさいなまれて過ごしている人達も多くいるのも事実です。」と言うのは、家族の半分を犠牲者として亡くし、故郷をも無くした宮城県の大川小学校出身の私の友人の一人の言葉です。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

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